元大関豪栄道、武隈親方について
先日、元大関豪栄道の武隈親方がNHKの正面解説をしていた。改めて引退したんだなと実感がわいた人も多かっただろう。
理由は大関から陥落することが決まったから。
翌場所で二桁勝てば大関へ復帰出来たのだが、あえてそれをせずに潔く引退した。個人的には大関復帰を期待していたが、身体の状態を考えても二桁勝つのは無理だと判断したのだろう。
(元大関に対して脇役とは失礼ではあるが)
その一つに14場所連続関脇在位という記録を彼は持っている。これはなかなか大関に上がれなかったからではあるが、安定して関脇の地位で勝ち越しを続けたということでもある。
そして大関昇進後も7勝~9勝あたりが多く、二桁勝利は少なかった。
大関時代の勝率は.573で1場所あたり8.6勝である。
カド番回数は9回、負け越し10回。
6場所全てでカド番を経験した。
これだけを見ると決して名大関とは言えないだろう。しかし、彼はガチンコ力士であった。その証拠に大関時代、千秋楽負け越しが3回もある。もし星のやり取りがあったのなら、そんなことはありえないだろう。
そして、カド番を何度も凌いできたことによって、大関在位は歴代10位の33場所となった。在位期間は5年半である。また、大関時代の勝利数は260勝で歴代10位(後に横綱に昇進した力士は除く)である。
ちなみに余談だが、カド番での通算成績は88勝47敗 勝率は.652で1場所平均9.8勝である。つまり平均でほぼ二桁は勝てていたことになる。
先ほども述べたように大関時代は1場所平均8.6勝であったので、カド番になると普段の場所とはまるで別人のように強くなっていた。
そんな豪栄道が唯一主役に躍り出た場所は2016年秋場所。成績はなんと全勝優勝。その全勝優勝がどれだけ凄い快挙なのかご存知だろうか。
戦後に誕生した横綱は34人。
15戦全勝優勝を達成した力士は戦前に15日制で開催された1939年5月場所から1941年1月場所までと1場所15日制が定着した1949年5月場所以降で26人。
戦後に誕生した横綱よりも15戦全勝優勝を経験したことのある力士の方がはるかに少ないのである。
全勝優勝は横綱でも経験出来ないまま引退していく力士も珍しくない。名横綱であっても滅多に経験出来るものではない。それ程の快挙を豪栄道はやってのけたのだ。
その場所には白鵬がいなかったではないかとケチをつける人もいるだろうが、白鵬以外の上位陣は全員出場していた。横綱戦と大関戦の対戦回数が5回あり、優勝次点が13勝という超ハイレベルな場所であった。
横綱戦と大関戦での対戦回数が5回以上(優勝決定戦を除く)あり、優勝次点が13勝以上という条件で優勝した力士は21世紀以降では横綱(後に横綱に昇進した力士も含む)以外は豪栄道しかいない。
また、横綱戦で複数人から勝利、かつ横綱戦と大関戦での勝利数が5勝以上(優勝決定戦を除く)、かつ優勝次点が13勝以上という条件で優勝した力士は15日制で開催された場所(1939年5月場所~1944年1月場所と15日制が定着した1949年5月場所以降)では合計10人しかいない。豪栄道と大乃国は大関でその他は全員横綱。ちなみに大乃国は後に横綱に昇進しているので最高位が大関なのは豪栄道だけである。
これだけでも近年多い上位陣総崩れの場所とは全然違うことが分かるだろう。
それでは実際に対戦した相手を見てみよう。
★豪栄道の対戦相手
初日 | 栃ノ心 (後の大関、優勝1回、年間最多勝1回) |
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2日目 | 正代 (後の大関、優勝1回) |
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3日目 | 栃煌山 (元関脇) |
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4日目 | 貴ノ岩 (※前頭) |
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5日目 | 宝富士 (※関脇) |
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6日目 | 高安 (※関脇、後の大関) |
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7日目 | 隠岐の海 (元関脇) |
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8日目 | 嘉風 (元関脇) |
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9日目 | 碧山 (元関脇) |
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10日目 | 照ノ富士 (※大関、後の横綱、優勝9回:全勝優勝1回、年間最多勝1回) |
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11日目 | 稀勢の里 (※大関、後の横綱、優勝2回、年間最多勝1回) |
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12日目 | 鶴竜 (※横綱、優勝6回) |
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13日目 | 日馬富士 (※横綱、優勝9回:全勝優勝3回) |
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14日目 | 玉鷲 (後の関脇、優勝2回) |
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千秋楽 | 琴奨菊 (※大関、優勝1回) |
※印は当時の番付
優勝9回、全勝優勝1回、年間最多勝1回で後の横綱である大関照ノ富士
後の大関である関脇高安
優勝1回で後の大関である正代
優勝2回で後の関脇である玉鷲
彼らの他にも貴ノ岩以外は全員元関脇か後の関脇、あるいは当時の関脇との対戦であった。そんな状況で全勝したのである。もう十分過ぎる程凄いのではないだろうか。
豪栄道の全勝優勝はもっと誇って良いし、もっと周りから評価されるべきだ。
元大関なのにたった1回しか優勝していないじゃないかと思う人もいるだろうが、豪栄道の場合はただの優勝ではなく全勝優勝である。全勝優勝と14勝以下の優勝は全くの別物なのだ。
もし仮に千秋楽琴奨菊に負けていたら豪栄道の価値は半減していたであろう。
日本人の全勝優勝力士なんてこの先当分出てこない。これは断言出来る。
また、豪栄道は20連勝も達成している。これもなかなか出来ることではないだろう。
またこれも余談ではあるが、豪栄道は2010年に日本大相撲トーナメントで優勝、2015年に明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会で優勝している。
一方で豪栄道はメンタルが弱かった。
2017年秋場所。終盤に日馬富士に3差を大逆転されて優勝を逃した。
しかし私はこれを惜しかったとは思わない。そもそも11勝なんて普通の場所なら優勝争い出来るような成績ではないのだ。したがってこの終盤での失速は実力が足りなかったとしか言いようがない。
11勝での優勝同点よりも14勝や13勝での準優勝の方がはるかに悔しいだろうと私は思う。
この場所に関しては早々に4敗しながらも最後まで諦めなかった日馬富士を褒めるべきなのだろう。
まぁ本音を言えば豪栄道ファンとしてはこの場所のことを思い出すだけでも辛いんだけどね。
ちなみに忘れてはならないのが、2016年の全勝優勝も2017年の残念なV逸もいずれも秋場所だったということである。これはただの偶然か、それとも必然か。
豪栄道の秋場所での幕内通算勝率は.683であり、1場所あたり10.25勝である。
また、秋場所での大関通算勝率は.700であり、1場所あたり10.5勝である。
よって豪栄道は秋場所に強かったのである。2016年の全勝優勝も2017年の残念なV逸も豪栄道が秋場所に強かったからこそ起こった出来事なのである。
話は変わるが、豪栄道は怪我が多かった。彼は今年の初場所直後に引退したわけだが、引退の理由となったのも昨年九州場所初日での左足首の大怪我であった。本人は決してそれを言い訳にはしないだろうが、ファンとしては非常に無念である。確かに怪我がなくても近年は衰えが目立っていた。怪我がなくても引退は近かっただろう。でも怪我ではなく衰えによる実力不足が原因で引退してほしかったと私は思う。
また、豪栄道は先にも述べた通り大関特例復帰制度を利用せずに引退した。したがって大の豪栄道ファンであった私としては、もし今場所に大関復帰をかけて二桁勝利を狙っていたらどうなっていたのかと、この永遠に答えが出ない問題をつい考えてしまうのである。
今場所に限っては、どうしてももし豪栄道が現役だったらどのような結果になっていたのかという視点で相撲を見てしまう。
今場所は新型コロナウイルスの影響により無観客開催となった。それが豪栄道としては果たして吉と出たのか凶と出たのか。
豪栄道は稽古場で強い力士だった。したがって無観客だと強かったのではないか。
それとも地元の大声援を受けた方が豪栄道にとってプラスなのか。果たしてどちらだったのか。
そしてこの場所は近年多い上位陣総崩れの場所ではなく、両横綱が好調で、豪栄道が苦手の朝乃山と遠藤がいて、御嶽海も好調である。その他にも幕内上位には成長著しい若手もいる。近年の中ではレベルの高い場所となった。
果たしてこのような条件のもとで二桁勝てたのだろうか。恐らくかなり厳しい状況になっていたことは想像に難しくない。
結論としては大関に復帰出来なかった可能性が非常に高いだろう。
最後に、豪栄道に対してファンがどう思っているかについてである。
豪栄道は主にネット上でよくネタにされる力士であった。
勿論彼のことをよく知った上で愛情をもってネタにしていたファンもたくさんいたであろう。
一方で、ただ単に馬鹿にしているだけのファンもいたと思う。そういう人は豪栄道がどういう力士であったのか詳しく知っているのであろうか?
もし彼のことをよく知った上で馬鹿にしていたのならそれはしょうがない。それも一つの意見であるからそれを批判するのはおかしい。
しかし、彼のことをよく知らないのにネット上でネタにされているからそれに便乗して小馬鹿にしていた人も多かったと思う。そういう人はまず豪栄道という力士がどういう力士だったのかをよく知ってほしいと心から思う。
その上で態度が変わらないのなら仕方がない。しかし、彼のことをよく知れば考え方が変わる人も多いと私は思っている。